02 ふたつのやさしさ
通勤経路が一緒なお兄さんの名前が「蛍さん」だと知ったあの日から数日間。隙あらば私はあの瞬間のことを思い出していた。どうでもいいことはたくさん話したはずなのに彼は何歳でどんな仕事をしているのかなんていう基本的な情報は何も知らない。近所だと思っているがそれは私の憶測の域を超えない。出来ることならもう一度同じバス停で楽しく話をしたい。なんて浮かれたことばかり考えていたせいか、気づかないふりしていた私の許容量を超え続ける仕事の山がついに崩れ始めた。
気づけばスケジュールが色づき、様々なプロジェクトの会議に呼ばれては無い知恵を絞って議論した。ここで煮詰まれば持ち帰りになるのは確定。なんとしてもある程度ここで消化していきたい。そうしていったら気づけば18時。今日の私のタスクの進捗はまだ0%。
「よし、ここからだ。」
そう言ってエネルギー飲料を体に流し込み本日の後半戦に備える。もうクライアントからの電話はかかってこないので私はイヤホンで耳を塞ぎひたすら自分の作業に注力した。
画面をにらみ指を踊らせてクライアントが欲しがる言葉を並べる。時にはデータを探しだして分析する。私のシナリオに沿うレポートを作り上げる。私達もクライアントも満足する結論がだせたかな、と思い始めたと同時に目が乾いたことに気づく。目頭を抑えながらフロアを見渡す。
「嘘…もう23時か…」
広いフロアにはもう数えるほどしか人が居ない。頭に靄がかかってきた。こうなってしまうと一度寝るまでは何をしても品質の低いものしか作れないので仕事を切り上げようと決めていた。先程完成した資料を保存したことを確認してコンピュータをシャットダウンする。
「あれ、#dname#ちゃんじゃん、ずいぶん遅いね。」
「及川さん」
コートを羽織りエレベータホールに出ると先輩と遭遇した。顔と話術と体力(体力とは?)を駆使して新規クライアントを開拓し続ける弊社のホープ。同世代からしたら尊敬か妬みの対象に上がりやすいだろう先輩はこんな時間でも疲れた顔ひとつせず後輩の私に気を配ってくれる。そりゃあモテるわ。
「こんなに若くて可愛い子をこんな時間までこき使うなんて君のチームもなかなかスパルタだね。」
「はは、まあ好きでやらせてもらってるんで、若いうちの苦労は買ってでもしろっていうじゃないですか。」
「#dname#ちゃん健気だね…おじさん感激しちゃう。」
「いや、いうほどの年齢差ないですよ。同じく青春を平成で過ごしてきたじゃないですか。」
「あはは、ありがとう。でもまあ心配くらいはさせて。本当に大変になったらいつでも相談してくれていいからね。」
責任感もほどほどに、そう言って心配そうに及川さんは私に手を振ってフロアに戻っていった。ああ本当に嫌だ。及川さんは私の魂胆がすべてバレている。そうやって言葉を選んで私の傷を抉らないように労わってくれるのだ。私のことを心配しておきながら私よりも責任感を持って働く及川さんには頭が上がらない。
私も早くああなりたい。人の力も借りずどんなメンバーでも仕事が出来るように、はやく、一人前に。
仕事のせいにして忘れたことにしたのは今はもう居ない同期の姿。私が追い詰めた彼女。
心臓がいやに煩い。今更考えてもどうしようもないことなのだ。ここは学校じゃない会社だ。成果を出さなきゃ居続けれれないのは当然だ。必死に自分を肯定する言葉を思い浮かべてはそんな自分に嫌気がさす。その繰り返しをしながらバス停に着く。明かりを放ちながら23:30の最終バスが近づいてくる。
ICをかざした瞬間になる警告音。残高不足の表示。
しまった。チャージするの忘れてた。どうしよう。チャージする時間を乗客全員の待機時間に充てる心の強さはなかった。なるべく人には迷惑をかけたくない、注目されたくない、降りよう。家まで歩けないことはないだろう。
「すいません、降り…「ふたりぶん、お願いします。」
匂いなんて覚えたつもりもないのに、後ろで感じた熱と風に乗ってきた匂いですぐに誰だかわかった。
運転手さんがなにかのボタンを押すと見覚えのある黒いスマートフォンがリーダーにかざされる。ピピ、と聞き慣れた音がするとバスのドアが閉まった。
「…蛍さん」
「残高不足だと思って勝手に支払っちゃいましたけど、僕はやとちりじゃないですよね?」
「全然はやとちりなんかじゃないです。助かりました。」
「もしかして財布も忘れたんですか?現金で支払いもできたでしょ」
「あ、」
現金で支払うという選択肢があることすら忘れていた。常日頃ITにどっぷり使っているとこういう弊害があるのか。忘れてました。と正直に言うと呆れたような笑いをしたあとにまあそんなこともありますよね。と一言。絶対にそんなこと思ってないだろうなと思いながらも彼の優しさに甘えた。
「バス降りてどうやって帰るつもりだったんですか。」
「歩いて…」
「30分はかかりますよ」
「歩けない距離ではないじゃないですか。」
「今何時だと思ってるんですか?そんなに人通りもないのに。」
どうしてそんなに質問攻めなんだろう。と思いながらも確かに私の行動を振り返れば考えが浅はかすぎて意味がわからない行動でしかなかったので強く何も言えない。もうすぐ今日が終わりな時間ではあるものの平日だし、都心だし、なんてったって私はもう若い子でもない。別に深夜に歩いて帰ることに違和感をもたれる人物ではないのだ。
「そんなに治安悪くないじゃないですか。」
「#dname#さんは自分が他人からどう見られているかもう少し配慮したほうがいいですね。」
「…どういうことですか、」
「年頃のそこそこきれいな女性なんだから少しは危機感持ったほうが良いって言ってるんです」
自分のことを美人だとは思っていなかったけど改めて他人から「そこそこ」って言われるとやっぱり面白くないもので、心配されている反面中途半端に貶された事に対して困惑と不満の混ざった顔蛍くんを見上げると意地悪そうな笑みを浮かべていた。
「余計でした?」
「そこそこは余計です。」
「客観的に褒めたつもりですけどね。でもまあ、本当に気をつけてくださいね。」
「…蛍さんって絶対昔いじめっ子でしたよね。」
「確かにそう言われたこともありますね。 まあ、性格が変わったつもりもないですけど。」
今も現役のいじめっ子ってことですか。そういうと彼は否定も肯定もせずに「ちゃんとチャージしてくださいね、明日遅刻しますよ。」と言ってきた。まだ私は彼の名字も知らないのに既に手玉に取られた気分。まあでも口は悪くとも心配してくれたってことなんだろう。そこは素直に感謝しよう。正直夜道の変態よりも終わらない仕事の方が恐怖だけど。
「それにしても随分遅いんですね、仕事ですか?」
「はい、お恥ずかしながら…蛍さんは?」
「僕は今日ちょっと友人と飲んでただけです。仕事大変そうですね。何されてるんですか?」
「あのバス停の近くのアイリスコヤマって分かります…?あそこで働いてます」
「うわ、エリートじゃないですか、いやあそこの人いつ見ても忙しそうですもんね。」
「いや、全然そんな事ないです、仕事が終わらせられないのでこんな時間まで残業してるわけですし…」
そう言って笑ったものの明らかに顔から残業疲れがただよっていたのか蛍さんが本当に体調気をつけてくださいね、なんて言ってくる。
大丈夫です、私は絶対に潰れられないので。なんて言ったら余計にややこしくなりそうなのでありがとうございます、とだけ返した。
「そもそもご飯ちゃんと食べてます?家で誰か作ってくれてたりします?」
「一人暮らしですけど大丈夫です、なんとかなってます。」
いやに人を心配するなと思いながら答えるとはあ、とため息をつかれた。食は健康の資本なんだから仕事がどれだけあったとしてもきちんと食べないと身もふたもないと私は深夜のバスの中で小言を言われた。そんな、今どき一人暮らしでちゃんと食べてる人の方が少ないでしょ。って思ったものの口に出したら蛍さんに論破されそうで黙っておいた。
「蛍さんは自炊してるんですか?」
「#dname#さんほど忙しくないので一応まあ、」
「うわー偉すぎる、蛍さん家も綺麗そうだしなんでも完璧そうですね」
「僕のことどんなふうに見えてるんですか」
「しっかりしてそうって意味です!」
他意はないです、というとそうですか。と言ってそれ以上突っ込んでこなかった。バスが私たちの最寄りを案内する。深夜ということもあって降りたのは私と蛍さんだけだった。
先日一緒になった時に帰路は概ねわかっていたので、途中でじゃあ、と分かれようとしたところちょっと、と引き止められた
「この時間人気が無さすぎるし、ここ治安が良いわけじゃないんだから送ります。」
「いや、それは悪いですよ。別に今までも何回かあったし」
「だから#dname#さんはまじで不用心すぎる。さっきも言ったでしょ。家わかるところまではついていかないから。それでも嫌?」
「嫌じゃないけど、蛍さんにそこまでしてもらうの申し訳なさすぎます。」
「僕が言い出したことなんだから#dname#さんは気にしなくていいの、じゃあ行くよ。」
そう言って私の手を引いてずんずんと蛍君は歩き始めた、かと思えば急に立ち止まり私の方を見て道わからないから案内してよね、と言ってきた。さっきまでのしっかりした感じとのギャップに私は思わず笑みを浮かべながらこちらです、とリードした。
10分そこらの夜の帰路。いつもなら黙々と変えるだけだった道がその日はすごく楽しかった。
「すみません結局マンション前まで送ってもらってしまって、ありがとうございます。」
「僕が言い出したことだから全然気にしないで、じゃあまた」
おやすみ、と言って蛍さんが去ろうとするところに私はあの、と言って引き止めた。蛍さんとの出会いを偶発的なものにしたくなくて自然と引き止めてしまった。
「あの、もしご迷惑じゃなければ連絡先交換しませんか?近所のよしみということで…」
もちろん嫌なら全然大丈夫です!と続ける。明らかに一瞬驚いた表情をした蛍さんに迷惑だったかも。流石に図々しかったかな。と内心反省していたら蛍さんがポケットからスマートフォンを取り出した。
「もちろん、これ僕のQRコード。読み込める?」
そう言って差し出された手。断られなくて良かった、と思いながらQRコードを読み込む。
再度別れの挨拶をし、部屋に入ったところで久々に増えたLIMEの連絡先を見つめる。
月島蛍とかかれた名前、小さく見える後ろ姿はスポーツ中のものだろうか?
"#dfam##dname#です、今日はありがとうございました。"
そう一言メッセージを送って私は眠りについた。
(2024.02.24)